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  • Aug. 30, 2019

  • “新しい工芸”が成熟しきった社会への答えとなる

  • 東京藝術大学大学美術館館長
    秋元雄史 インタビュー

  • writer ASAMI MATSUMOTO
    photographer YUBA HAYASHI
    editer NAOMI KAKIUCHI

東京藝術大学大学美術館館長
秋元雄史
東京藝術大学大学美術館館長・教授、練馬区立美術館館長、金沢21世紀美術館特任館長、国立台南芸術大学栄誉教授。

1955年東京都生まれ。東京芸術大学美術学部絵画科卒業後、1991年より2006年までベネッセアートサイト直島のアートプロジェクトに関わる。2004年より地中美術館館長、ベネッセアートサイト直島・アーティスティック ディレクターを兼務。2007年から2017年3月まで金沢21世紀美術館館長。

 

 

 

「直島」と「金沢21世紀美術館」。この2つの場所の名前を耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。直島は現在アートの聖地として広く知られ、金沢21世紀美術館は、金沢の観光名所として大きな賑わいを見せる場所だ。

今回取材に伺った秋元雄史氏は、この2つの場所で、大きな役割を担った。大学は、東京藝術大学油画専攻。卒業後はアート関連のライターとして活躍した後、1991年にベネッセ入社。それ以後、香川県直島町にて地域に溶け込んだ現代アートの場を展開し、2007年から2017年までの10年間は石川県金沢市の金沢21世紀美術館・館長として、町に開かれた現代美術の場を盛り上げた。

現在は、2015年より上野の「東京藝術大学大学美術館」の館長を務めている。金沢21世紀美術館館長の任を離れてはや3年目を迎えるが、特徴的な風土が息づく瀬戸内の島と北陸で奮闘した25年間は、文化が地方のアイデンティティを確立する役割を担う、という考えをもつ大きな機会となったに違いない。

 

文化は暮らしの中に入り込んでいく。経済政策ももちろん大切だけれど、直島にしても金沢にしても、福武さん(ベネッセ社長:当時)や三宅さん(直島町長:当時)、山出さん(金沢市長:当時)も『観光のためではなく、自分たちの地域のアイデンティティを形成するために文化が必要だ』と言っていた」

直島では島の皆さんが自身の体験談や感じたことを交えて作品を紹介してくれる。それも作者や作品についての型通りで“いかにも”な解説ではなく、直にアーティストたちの制作を見て、感じたことなのだ。そういった話を聞きながら作品を見ると、さらにアート作品とその土地のリアルな結びつきや暮らしが実感できる

 

圧倒的に自由な現代美術

 

そもそも秋元氏が現代アートに興味を持ったのは、舞台や演劇など、多くの芸術に小さい頃から触れる機会が多かったことによる。そのなかでも現代アートを好きになったのは「表現の制約が無いから」と秋元氏。“自由な”美術とはいえ、これまでの美術には素材なりモチーフなり、ある程度の制約は存在する。その制約を徹底して飛び越え、自分の世界をつくる現代アートに憧れたのだ。

 

藝大に入学した後、「現状に満足しておらず、他のひとと同じように生きていくつもりのない」同級生たちと過ごし、いろいろなことを試していた80年代。世の中はバブル経済真っ最中で、現代アートもその影響からか、少しづつ世の中から注目されてきていた。80年代から90年代初頭に、日本の現代アートがヨーロッパで紹介されるようになる。そのきっかけとなったのが、グローバリズムだ。ヨーロッパはEUの統合に向けて国家間の境界を弱めて、多文化主義的な開放政策を取り始める。

 

「ヨーロッパの事情だと思うけれど、グローバル化が進んでマルチカルチャリズム(多文化主義)といった発想が出てくると、イギリス、ドイツなどのヨーロッパの美術館のキュレーターたちが日本に興味を持ちはじめて調査に来るようになる。たぶん欧米発の自分たちとは異なる文化的ルーツを持ちつつも近代化をしていた日本や韓国なんかに注目し始めた」

 

秋元氏は、80年代から2000年代頭にかけての日本現代アートの様子を解説してくれた。

 

「60年代から70年代を代表とするアートムーブメント(※1は欧米中心に動いていた。まさに海の向こうの話だった。日本にいたら、それに触れる方法は『美術手帖』(美術出版社刊)などの美術専門誌ぐらいのもの。僕なんかが作品を発表したり、見たりするのは、神田や銀座にあった貸画廊。そのころは日本の現代アートは貸画廊を中心に動いていた。アーティストはもちろんだけど、美術館の学芸員、新聞記者、評論家などが集ってアートコミュニティをつくっていた」

貸画廊が多かったが、ようやく現代アートを扱うコマーシャルギャラリーができ始めた頃だった。それが80年代。

 

その頃から日本の現代アートが海外から注目され始めた。イギリスからは、後の森美術館・初代館長になるデヴィッド・エリオットが、いち早く日本に調査に来て、館長を務めていたオックスフォード近代美術館で日本の現代アートを紹介していた。それをきっかけに日本の現代アートがヨーロッパで紹介されるようになる。ヴェネツィア・ビエンナーレのアペルト(※2)などで日本の若手アーティストが紹介されるなど、国内外で状況が一変する。それまではヴェネツィアの国際展に参加するというのは、日本館で日本代表として出るということぐらい。90年代になると国際展に日本のアーティストが参加しているというのが普通になった。さらに2000年頃までには、南米、東南アジア、中国などのアーティストが国際展に参加してきた。「日本にいながら国際的なアートシーンの中にいるんじゃないかと思えた時期だった」と秋元氏は振り返る。

 

(※1)芸術を日常的な行為にしようとした「フルクサス」、新聞紙や未加工の石などを材料する「アルテ・ポーヴェラ」、作品での表現を必要最小限に抑える「ミニマリズム」、作家の思考や意図を最重要視する「コンセプチュアリズム」など。

(※2)ビエンナーレの若手作家部門

ビエンナーレの衝撃

現在では巨匠として大活躍する宮島達男、森村泰昌、石原友明など、当時は20代もそこそこだった作家が突然「ヴェネツィア・ビエンナーレ」など国際美術展の出品作家に選ばれた。

 

「そこらを歩いている女の子が突然ハリウッドデビューしたような衝撃だった(笑)。いままで考えていたような、階段を一段一段と登って作家になるというプロセスとは全然関係がないことがわかった瞬間だった」

「宮島さんが後日言うには、搬入が終わってカフェで『俺たちも国際舞台に立てたなあ』なんて感慨深く話していた。そうしたら、搬入のときに見た人たちがなにやら隣の席で話している。そこで聞き耳を立ててみたら、どうやらアートビジネスの話をしているようだと」

その場にいたのは、アーティストの他に美術館の館長やキュレーター、ギャラリスト、コレクター。最終目標だと認識していた展示が、実は出発点だったと悟った。そうか、ヴェネツィア・ビエンナーレからが始まりなのか、と。

 

※下記、宮島達男氏作品写真(写真提供 : Tatsuo Miyajima Office)

 

SEA OF TIME, 1988, Installation view at Hara Musuem, Photo Tadashi Hirose (写真提供 : Tatsuo Miyajima Office)

COUNTER LINE No.2 1989 (写真提供 : Tatsuo Miyajima Office)

Counter Circle 1993 (写真提供 : Tatsuo Miyajima Office)

日本社会が世界に開かれた80年代から90年代。これを契機に、前述の宮島達男、森村泰昌、石原友明はもちろん、先行の川俣正、保科豊巳、また後続には、柳幸典、村上隆など、日本の現代アートを牽引する作家たちが次々と海外デビューしていく。アーティストだけでなく、中村信夫、南條史生、建畠晢、逢坂恵理子、長谷川裕子といった日本の大御所キュレーターも、次々と世界へと飛び出していくこととなる。

 

「80年代後半から90年代は、世界的にも流れが大きく変わった時代だったと思う。グローバリズムと多文化主義が拡がって、いろんな人が参加したことで欧米中心から脱却したということかな。世界中のいろんなところにアートがあっていいんだ、という雰囲気ができあがってきた」

ここで秋元氏が言う“いろんな人”とは、各国のアーティストやキュレーター、ギャラリストのみならず、町に暮らす人も含む。

実際に1986年にベルギーのゲント市で開催された展覧会「シャンブル・ダミ(友だちの家)」展(キュレーター:ヤン・フート/ゲント市内)では、市民が展示スペースを提供したり運営スタッフとして参加して、アートそのものが文字通り「みんなのもの」になった。それに1989年の「大地の魔術師たち」展(キュレーター:ジャン=ユベール・マルタン/ポンピドゥー・センター)では、現代アートとアフリカの仮面やアジアの曼荼羅などが同時に並んだ。このふたつの展覧会開催の意味は大きい。

 

「シャンブル・ダミ」展では、サイト・スペシフィック、インスタレーション、参加型アート、また「大地の魔術師たち」展では、ポストコロニアリズム、マルチカルチャリズム、プリミティヴィズムなど、今日につながるキーワードがいくつもある。ちなみに「大地の魔術師たち」展では、勅使河原宏、宮島達男、河原温、河口龍夫、4人のアーティストが参加した。

 

90年代の国際化した美術は、日本では2000年頭に現代美術館の姿となって一気に花開いた。1990年、茨城県の水戸芸術館を先駆けとして、2004年7月に秋元氏が立ち上げに関わった直島の地中美術館、10月には金沢21世紀美術館、11月に大阪の国立国際美術館が続けてオープン。それを機会にさらに現代アートは社会に浸透していった。

 

主要な来館者となったのが20代30代の若者たち。現代美術館の登場によって彼ら彼女らが知らないうちに現代アートを楽しんでいった。そして現代アートに親しみ、鑑賞する土壌が育まれてきた。文化誌やライフスタイル誌にもアートが取り上げられ、NHKの美術番組「日曜美術館」でも現代アートの情報を紹介された。「限られた人たちだけの教養」から普段から楽しめる知的な遊びに変わったのだ、と秋元氏は分析する。

 

地中美術館の来館者は当初約7万人だったが、2016年には約18万人。金沢21世紀美術館では約100万人から、2018年には258万人に達している。現代アートはもはやポピュラーな存在になったといえる。

工芸大国、日本

秋元氏は、2018年7月に自身の著書『直島誕生』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を発刊した。そこには、いかにアートの真髄を引き出し、どれほど心を砕いて現代アート発のコミュニケーションを地域の財産としたのか、”アートスポット直島”が出来上がるまでの経緯が綴られている。多くのアートプロジェクトを手掛けてきた秋元氏が、これまで一貫して意識してきたことはなんだろうか。

 

人がどうやって価値観を共有するか、とても気を使っている。今だにそれが一番難しいのだけど。人間は自分の経験をもとに考えるので、他人が発した言葉でも、自分自身が経験したことに引き寄せてしまう。バックグランドの異なる人達の間に発生する食い違いをすり合わせていくことが大切

昔は暮らしを共にすることで理解し合うことができた、しかし、文化や感じ方の多様さや交流の範囲が広がり、言葉だけで意思疎通を図るようになると、曖昧な、でも伝えたいことが抜け落ちてしまう。「境界にあるものを言葉で細かく伝えようとすると表現が紋切り型になるんだよね」

言葉で補えない部分は、ある程度閉じた社会のなかでじっくりとわかり合っていくしかないのかもしれない。閉じた社会とは、直島町のような地域だったり、特定の文化でくくられたコミュニティだったりする。

 

「ところが、社会は開かれていないといけないというのが現在の大原則」

 

この開かれている状態というのが、なかなかのくせ者で、開かれた社会では価値観が相対化してしまう。グローバリズム一辺倒の限界を感じはじめていた秋元氏は、2016年に金沢21世紀美術館で「デザインと工芸の境目」展や「工芸未来派」展などで改めてローカリティと工芸を問うことに。

 

「グローバリズムだ、多文化主義だといいながら現代アートはとにかく世界に広がっていった。それと同じに文脈が単一化していった。それにいまだに欧米中心主義から脱却できない。現代アートが主流になったら、マーケットもそちらになびいて、価格もどんどん上がる。結果、金持ち、いわゆる社会的勝者しか買えないものになった。でも現実社会はその人たちのものでもないでしょう? 弱肉強食だけではつらい。弱い立場にいる人を理解したり価値を共有して信頼関係を作れる社会もないとやっていられない。グローバリズムだけで行くと結局一方的になる。だからどこかまでは開かれた社会でいいけれども、完全に開くことはない

 

どんどん開き、人間の欲望を追求する自由経済にたどり着いた社会は、圧倒的な金持ちと貧しい人に二分された。そして、その結果、グローバリズムに対抗する動きも現れた。イギリスのEUの離脱やトランプのアメリカ第一主義といった自国優先主義とそれから発生した「対立」だ。

 

「なかなか厄介な時代なんだけど、グローバリズムでもローカリズムでもない、第三の道を見つけないといけない」と秋元氏。

一見保守的に見える工芸を別の視点から見てグローバリズムとローカリズムを止揚する新しい可能性にならないか、そんな思いで一石を投じる。

 

工芸の波は、西ヨーロッパも起こっている。クラフトビエンナーレの企画が持ち上がったり、スペインのレザーブランドが「ロエベ クラフト プライズ」を開催している。2016年の1回目はスペイン、2回目のイギリスを経て、なぜか3回目は日本・東京での開催。なぜヨーロッパやアメリカではなかったのか? 秋元氏が関係者に訪ねたところ「日本は工芸大国だから」と言われたのだそう。

 

実際、このクラフト展では毎年日本人作家の作品が入賞している。工芸とはまた違うが、日本発の民芸にも関心が集まり、彼らの間では「MINGEI」と呼ばれている。アートのようにコンセプトやストーリーを伝えるのではなく、作品そのものに力が宿っている、言葉では伝えられない事も見ただけでその凄さが伝わる、ものづくりへの日本的なアプローチが高く評価されているのだ。だからこそ、「日本のポテンシャルはかなり高い」

 

思えば、秋元氏は「美術を技術として考えていくことは、日本的な美術の特徴だと思う。作品の共通性は見えなくても、精度を追求していくという特徴がある。コンセプトをきちんと作品を通して伝えたいという気持ちが感じられる」と言っていた。その背景には、技術を研鑽してきた工芸の歴史があるからかもしれない。

 

 

新しいフロンティア、新しい工芸

今、西ヨーロッパから日本に押し寄せている工芸の波は、80年代の現代アートの波と似ているという。それは、成熟した社会からの脱出口を探し求めてのことかもしれない。「新しいフロンティアとしての工芸」と秋元氏が言う工芸のあり方は、ファストフードに対するスローフードや農薬などの薬品を使った農業に対する有機農業といったものと同様で、過度なコンセプチュアル依存のアートに対するカウンターである。それは、スローフードやオーガニックな農業が一種のイデオロギーであるのと同様に“工芸”というイデオロギーだ

 

「工芸とは、そもそも前提として材料が必要なもの。しかも、その材料は自然由来でいずれは朽ちる。物理的な限界がある。それに技術も必要だ。そういう限界があるということがよいことで、それによって人間の空想や欲望を抑制することができる。一方で、短所もある。工芸が成り立つにはエコロジカルな循環型の社会がないとダメで、価値観を共有するコミュニティがないとうまくいかない。いかに簡単に消費されないような構造に持っていけるかが大切」

 

単なる消費財にならないためには、暮らしの一部になっていくものでなくてはいけないが、消費が前提の今の社会ではなかなか成り立たせるのはむずかしい。ただ工芸は、私達の生活に溶け込み、各地でそれぞれ引き継がれてきた歴史がある。まだそれらがかろうじて残っている。工芸の良さを再発見して、うまく時代に適応させていきたいと秋元氏は夢を語る。

 

秋元氏が直島に携わっていた頃のこと。アメリカのキュレーターが直島を訪問してこう言った。直島で現代アートを見ると随分と牧歌的に見える。直島の作品は、現代アートの巨匠である草間彌生、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルらの作品である。どちらかといえばミニマルでコンセプチュアルな作品で、間違っても“牧歌的”ではない。ところが直島というロケーションに置かれると、そんな作品すら平和的に見える。「それはたぶん直島という場所がそうさせるのだ」と秋元氏はいう。瀬戸内海の穏やかな海と島の暮らし。直島の風土と歴史に結びついたアートはそんなふうに見えるのだろう。

アートを成立させる場としての「地域」が、これからのアートを考える上で改めて重要になってくるのかもしれない。

 

分散的に変化していくものが持つ可能性は無限に拡がる。これまで日本各地で独自に培われてきた個性は、今後どのように世界と関わり社会を形成していくのだろうか。そしてさらに形成された新しい工芸を、秋元氏はどのように社会へと紹介していくのだろうか。

 

 


 

東京藝術大学大学美術館館長
秋元雄史


東京藝術大学大学美術館館長・教授、練馬区立美術館館長、金沢21世紀美術館特任館長、国立台南芸術大学栄誉教授。
1955年東京都生まれ。東京芸術大学美術学部絵画科卒業後、1991年より2006年までベネッセアートサイト直島のアートプロジェクトに関わる。2004年より地中美術館館長、ベネッセアートサイト直島・アーティスティック ディレクターを兼務。2007年から2017年3月まで金沢21世紀美術館館長。これまでの展覧会やプロジェクトは、「直島・家プロジェクト」、「直島スタンダードⅠ、Ⅱ」展、「金沢アートプラットホーム2008」、「金沢・世界工芸トリエンナーレ」、「工芸未来派」、「柿沼康二 書の道 ぱーっ」、「井上有一展」等を開催。2013年4月~2017年3月まで秋田公立美術大学客員教授。2013年4月~2015年3月まで東京藝術大学客員教授。2018年〜公営財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会文化・教育委員、2018年〜アジアン・カルチュラル・カウンシル日本財団理事等。著書には、「日本列島『現代アート』を旅する」小学館新書、「おどろきの金沢」講談社プラスα新書、「直島誕生」ディスカバリー・ツゥエンティワン、「武器となる知的教養 西洋美術鑑賞」大和書店、「一目置かれる知的教養 日本美術鑑賞」大和書店など。

 

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