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12
2024
Jun. 26, 2023
現代アート、NFTの「今と、これから」の話【イベントレポ/後編】
ゲスト:キュレーター高橋洋介さん・ブロックチェーンエンジニア/トークン投資家 Jerry KOUさん
transcription:Hikari Tamura
event photo:Ikumi Chiyoki
表参道のGYRE galleryで開催された「超複製技術時代の芸術:NFTはアートの何を変えるのか?」ーの企画・キュレーター高橋洋介さんをお招きしてトークイベントを開催しました。(展示期間は2023/05/21まで)
NFTやweb3の技術を活用したアート作品を介して起こる情勢・議論・コミュニケーションを交えて、業界での関係性・可能性についてなど、繰り広げていきます。
また海外のweb3コミュニティー事例について、ブロックチェーンエンジニア/トークン投資家のJerry KOUさんにもお話し頂きました。
スピーカーにはKAMADO代表の柿内、モデレーターはKAMADOプロジェクトパートナーである瀧原 慧です。会場であるCryptoBaseはweb3のチャレンジャーたちが集うコワーキングコミュニティです。クリエーターに関係するコミュニティーとして繋がりを構築してます。イベント開催のお声がけ/会場のご協力を頂きました。
レポート記事は3部構成となります。
前編:高橋 洋介さんから展覧会概要のお話
中編:Jerry KOUさんから海外web3コミュニティ事例についてのお話
後編:NFT(テクノロジー)とアートの可能性や関係性・関わり方について&質疑応答(この記事)
高橋 洋介/キュレーター
金沢21世紀美術館主任学芸員、角川武蔵野ミュージアムキュレーターを経て独立。専門は超人間中心主義の芸術。最新の展覧会に「超複製技術時代の芸術」(GYRE、2023)、「Liminalism」(pellas gallery、ボストン、2023)など。
金沢21世紀美術館での主な展覧会に「DeathLAB : 死を民主化せよ」(2018–2019/コロンビア大学大学院との共同企画)、「Ghost in the Cell : 細胞の中の幽霊」(2015 -2016/オーストリアのアルスエレクロニカへ巡回)など。
Jerry KOU/ブロックチェーンエンジニア・トークン投資家
Imperial College London 電気・電子工学(大学)/情報システム工学(大学院)卒業。卒業後、ZTE社(中国・深圳)ソフトウェアエンジニアからキャリアをスタート。2013年にZX Tek Ltd,のCEOに就任し、香港・米国・中国本土の組織作り等を実施。ブロックチェーンへの興味から、2017年よりシアトルアントレプレナーとしてBitcoin Miningやブロックチェーンプロジェクトへの投資、Cryptoのハードウォレット開発、インフラ開発に携わる。
瀧原)KOUさん、ありがとうございました。高橋さんから一言、世界ではこういう状況もあるということに関して感想というか意見みたいな形でいただければと。
高橋)シンプルにKOUさんには申し訳ないんだけれども、僕自身は結構批判的に見ていて、イノベーティブだとするならば、売り方はイノベーティブである。と言えるかもしれないけれども、表現としては、僕は現代アートの人間なので、さっき見ていただいたように、コンセプチュアルアートみたいなものがですね、ずっとその形のないものを売る、形のないもので表現するとか、アルゴリズムを使って絵を描くということをずっとやってきて、っていう点から言えば新しいものは何もない。売り方以外は。っていうようなスタンスなんですよね。
要は、例えば作品は物ではなくて、物を通して生まれてくる人と人の関係性とか、コミュニティ、社会の変化が作品であるっていうのは、1960年代から始まって1990年代以降に本格化して、関係性の美学という運動してまとめられる。NFTって技術を使って、それがさらに加速していくことや、より社会に強い形で影響力を与えてくるってことはあれども、本当に新しいのか。ビジネス以外の新しい価値を生み出しているかどうかはきちんと検証されるべきだし、それがあるものは残っていくけど、ないものは残っていかない。という立場です。
瀧原)なるほど、ありがとうございます。KOUさんが言っていた『アート的な側面のメリットで言っていたものは、そのアーティストがお金を得る手段には一つあるんじゃないのか』みたいな点があると思うが、そこについては?
高橋)それは間違いないですね。NFTアートがアートとして、要は、歴史に残るかどうかや、歴史的に価値があるものとして美術館に収蔵されて、未来永劫残っていくものになるかは置いといて、好きな人たちがそれを買って、より気軽に買ってコレクションしていくみたいなことができるし、それで実際に生活しやすくなったと言うアーティストたちがたくさん生まれてきたってのは確かで、それは全然いいと思います。
瀧原)結構さっきの話しからすると、表現の手法っていうところで、高橋さんの話の中では強かったと思うんですけど、やっぱ稼ぐ手法的な意味での話がKOUさんの技術的な、可能性としては言われたと思うんですけど。何か一歩でも遡って結構遥か前の話ですけど、柿内さんは一応その業界の問題点みたいなところで、経済的な制約っていうか課題みたいなのが業界にあるこういう技術を両方見て、柿内さん的にはどういう世の中はweb3やアートが絡むべきかなと思いますか?
柿内)ちょっと我儘なんですけど、私は本当に「間を取りたい」っていうのが、やりたいことです。今の時代でしか生まれてこないアートっていうものをアーティストの生き方でもあるし鑑賞者、皆さんの生き方だと思ってるし、それを通してコミュニケーションになればいい。
正解がないアートに対してみんなが『あーだこーだ』っていうふうに語り合えたら、もっと多様性が認められる社会になると思っているので、それをweb3の世界観やテクノロジーを使ってやりたいっていうのが、今後KAMADOがやっていきたいことであります。
このKAMADOのメッセージを伝えたいとこを、多分ご理解いただけるのに、お2人が今やってらっしゃることが、ドンピシャだったのでお越し頂きました。本当に素敵なお話をありがとうございます。
瀧原)何か経済的なっていうところででも、資本主義的なとこに寄りすぎず、どういう風にその文化をより豊かにするために何ができるんだろうって視点で多分この会を開いていると思うだけど、何か今のところ現状そのKAMADOとして、お金を稼ぐのかとかどういう方向にやっていきたいのかな。お金欲しいとまで具体的には言わなくてもいいんですけど、何か考えはありますか。
柿内)「アーティストや作ってる人たちが、報われる社会になってほしい」とはずっと思っていて。手段として、今までだとWeb1って、ただ発信してそれを受け取ってもらうっていう社会があって。でも、探すっていうことでしかそこに接続できなかったから、ダイレクトに自分が求めてるものに行けたじゃないですか。そこでコミュニケーションが生まれたりしてっていうのがWeb1の世界かなと思ってるんですけど。
Web2.0も最初は良くて。私、昔はFacebookとかめちゃくちゃ活用してたんですけど、今全然やらなくなっている、あ、もちろん仕事のことは投稿するんですけど、なんかインターネット疲れとかSNS疲れみたいなのが出てきたときが今だと思っていて、そこからweb3っていう小さいけど深くて面白いコミュニティに世界中のみんながコミットできるっていう世界観が、web3ではできて、それがちゃんとお金としてロイヤリティが還元できるし。っていうものがある。それがアートの世界と「がっちゃんこ」できないかな。っていうのが、今やろうとしていることです。
瀧原)ありがとうございます。逆に切り替えて、高橋さんに振りたいかなと思っているんですけど、今回の展示とかを通じて表現手法というところでの、技術の進展というのは認めているけれども、そこにあるアートの価値みたいなものは、結構懐疑的というか、むしろ示唆的に慎重であるべき。みたいなところも今日のお話の印象としては受けたんですね。
これが例えば事前に来場者から質問をいただいてたりする部分あるんですけどもけど、その作家とそれを見る鑑賞者的な立場として、今のこのweb3という時代で。どういうふうにその作家と向き合えばいいか。鑑賞する側のもうデジタルテクノロジー活用されたチームラボとかいろいろ楽しいのがあると思うんですけど、あそこに対して何を、鑑賞する側も受け止めていけばいいかなど。作家と鑑賞者のこの時代だからこそどういうふうに「べき」とまではいかなくても、やはりどう向き合えばいいのか。
高橋)好きに楽しめばいいっていうのは絶対に大事、もちろん前提としてある。同時に、プロの視点から言えば、まず何が価値かがめちゃめちゃ問われるんだろうなと思っているんですよね。
価値には2種類あると思っていて一つは有用性に基づくもの。それは例えば医薬品とか農作物とかファストファッションというのは需要が増えれば増えるほど欲しい人がいればいるほど、作る量も増えて価格がどんどん下がって大量生産ができる。
でもそうじゃないものもある。例えばアート作品って、何で100億200億とかするの?っていうと、それは、要は、実用性がないから。実利に基づかないもの、宝石とかアートとか、ファッションでのオートクチュールみたいなものとか。そういうものは希少性とか歴史とか社会に紐付いて、それは、ある時代のこの時代にしかない何かが、いろんな形で保証・担保されることによって、本当に超希少なものとして流通し、誰もが手に入れられない超高価なものになる、あるいは、あらゆる人が共有すべきものになり、もはや値段がつけられない公共物へとなっていく。まず、そういう価値の差があると思うんです。
NFTアートって言ったときに、その両方が入り混じってるような今の状況で、NFTにしておけば何でもアートみたいな状況もあるんだけど。
これ皆さんもしかしたら見たかもしれないですけど、例えば左は去年の秋にAIが生成した画像が絵画のコンテストで優勝した。右は3日前の記事ですね。AIが作った画像が写真コンテストで入賞みたいなことが起きて、もうプロの審査員でさえ判断できない状況がこの1、2年の間に次々起きてきているんですよね。これはまだほんの序章に過ぎず、もっともっと加速していくだろうっていうふうに僕は思うんです。
※参考記事:国際的写真コンテストでAI画像が優勝
誰もが、どんな仕事でも、今のプロよりも、うまく面白く作れるような時代が今後やってくるかもしれない。AIが生み出した人間以上のレベルのものを溢れかえる時代になる。世の中、もはや誰もイラストレーターに頼まないし、誰も音楽家に頼まないしみたいな。
だって、自分でもっと面白いもの作れちゃうかもしれない。って言うような時代が来る。これがまさに超複製技術時代の芸術の一端になると思います。
本当に価値のあるAIにコピーできないのは何か。ていうことこそが本当に問われてくるんじゃないかと。アーティストの制作の軸として、僕は一つは時間が鍵になると思っているんです。見た目が全く同じ作品を作ったとしても、そのプロセスが全く違った場合、そこに何かすごい意味や価値が生まれる。表面が全く同じものをつくれても、その過程自体をAIはコピーすることはできないから。
例えば、今の囲碁とか将棋を考えていただくとわかりやすいんだけど、もはや人間の世界チャンピオンよりAIの方が強い。誰もがそれを知っている。でも、それでも人は囲碁や将棋を見る。なぜならば、羽生さんとか、藤井聡太の背後にある、人生の全てを賭して積み上げてきた努力や選択、それらが織りなす歴史の衝突が面白いから。人が2人の棋譜を見て楽しんでいるのは、それぞれの物語であり、人生や歴史なんですよ。だから、人間より強い最強AI同士が囲碁やったとしても面白くない。あるいは野球でもいい、WBC決勝で、大谷翔平よりも早く投げるピッチングマシンと、トラウトより打てるバッティングマシンがバチバチに戦っても(技術者以外は)面白くないんですよ。
やっぱり人は、その背後にある物語を楽しんでいるわけです。そこに、とんでもない価値が宿る。だから、人間がこれから勝負していかなきゃいけないのは、そういうAIにコピーできない時間軸、ある種、見えない物語の創造みたいなところだと思います。実際YouTuberとかティックトッカーがバズってるのはまさにその点だとも言える。
他の人たちが生きられないような時間軸で生きていて、他の人たちができない生き様をしていて、他の社会では認められてないような価値観の中で生きられてるからこそ、そこに価値が宿る。AIはやらない、一般解じゃないから。特殊解しか出力しない人達が価値をつくる時代へと変化していくんじゃないかな。みんなが特殊な時間性を求め、面白がるようになってくるし、アーティストはそこを狙っていく時代になるんじゃないかと。
瀧原)なるほど。なるほどとしか言えないぐらいに、すごいなんかおもろい返事がきましたね。ありがとうございます。今のを受けて柿内さんどうですか?
柿内)いやもう、その通りだと思います。アートって新しい発見や驚きもあります。
私はやっぱりアートって鏡だとも思うし、生き方だと思う。アートを知らない人、現代アートをまだしっかり見たことない人とか、ちょっと難しくてわかんないと思ってる人にもう少し深いところまで、面白がって欲しいし、見ていただきたいと思ってます。
高橋)アートが生き方であるっていうのは本当その通りで、美術館はいろんなこれまで生きてきた変な人たちの生き方を集めている場所であって、そういう多様性の保管庫なわけです。それを楽しんでもらう場所でもあると思います。
瀧原)そうですね。ありがとうございます。
今アートの価値みたいなところって、ベンヤミンの話のアウラでまさにおっしゃったように、コンテキストだったり、なんかいいなこれみたいな感覚が、儀礼的価値みたいなのがちゃんと備わってるからいいんだよ。っていうところがあるんですけど、何かここら辺の技術みたいなものを活用して、なんかもうちょい芸術活動・創作活動とか鑑賞活動が豊かになる。みたいなところで、何か期待することとか、もうちょいあったりしますか。テクノロジーを予見するというか、例えば今後どういう作品が生まれるか。
高橋)ちょっと一般論になっちゃうかもしれないんですけど、ますます社会はプロセスとか見えないものを重視する方向にいくんじゃないか、っていうのはちょっと想像はしていて…。ただ、今って、ホワイトカラーとかクリエイティブな人たちが下手すれば一掃されるような時代じゃないですか。かつて肉体労働やってた人たちが自動車、トラクター、ブルドーザーといった機械にどんどん仕事を奪われていった事と同じことが、今、クリエイティブとか知的労働、ホワイトカラーでも起こっている。それがこの10年、20年どんどん進んでいく気がするんですよ。
その結果、資本家と労働者の関係はたぶんまったく変わらなかったとしても、そういう特殊な時間軸を売る、来歴や履歴や未来を売ることを主軸にしてくるような新しい職業が出てくると思います。
例えば3日ぐらい前、原宿にできた「友達がバイトしてるカフェ」をコンセプトにしたカフェができたじゃないですか。
行くとなんか『久しぶり!』って感じで店員にいきなり言われて、オーダーの仕方もコーヒーって言うんじゃなく、『いつもの』とか言って頼む。それって同じコーヒー買うんだったら、コミュニケーションが面白い方にみんな行きたいっていうことですよね。そこで過ごせる時間の質や注文のタイムラインが特殊だから楽しい。そういうものが今だんだん重要になっていくんじゃないかなって。
瀧原)同じものを買うのにもコンテキストというか。
高橋)過程とか面白いプロセスとかコンセプトとか文脈のちょっとした違い、そういう見えないものをみんな買うようになってきてるっていうのが今の時代なんじゃないかなっていう。気がするんですよね。
瀧原)会場の皆さんで何かお話を伺ってみたいなという方はいらっしゃいますか
来場者)ジャイルでの展示を拝見しました。
質問としまして、NFTっていう概念とかブロックチェーンの技術っていうのは、展示を見させていただきましたように、とても興味深いものだと思うんですね。現代アーティストにとって。今後も現代アート、コンテンポラリーアートNFTとかブロックチェーンがもっと仲良くしていけたらいいなと思うんですけども、アカデミックなところと、そのNFTがもっと仲良くなるというか、近付いていくというか融合する可能性というか、アートの価値というそういったものについてどのようにお考えでしょうか?ところだったと思うんですけども…。
高橋)僕自身は、NFTっていうのは60年代以降のコンセプチュアルアートの論理的な帰結があると思っているんですよ。展覧会の中では形のないものを60年代アーティストたちがどう売ってきたのかとか、あるいは絵画を描く方法を作品とするアーティスト・作家たちも、NFTの起源として紹介してるんです。アルゴリズムで絵を描く、契約という不定形なものを作品にする、そういう見えないものを作品とする表現を自動化するメディウムが今のAIやNFTだと思ってます。
でも、例えば、アカデミックや従来のアートコレクターのような伝統的な層はもうめっちゃNFT嫌いなんですよ。彼らはめちゃめちゃ嫌がっているけど、ペースギャラリーのような現代アートの本当に革新的な層は買ってるし、MOMAのような海外の美術館も買い始めている。でも、日本の多くのアート関係者はかなり保守的なのが現状で、ただの一時的なものだと思っていて本質を見ていない。
例えば、写真とか映画が出てきたときに、『あんなものは芸術じゃない。』って言ってた人たちが山のように居たわけです。今、写真誕生から100年を振り返ると、写真1枚何十億円が当たり前になってきてるし、アンディ・ウォーホルのシルクスリーンだって、『ただの複製じゃないか、こんなもの広告で芸術じゃない』と言われてたけど、去年250億円で落札されているし、同じような話だと思う。
コンピュータで描いた絵が芸術かどうかという議論も60年代にはもう起きていたけど、今のNFTがアートかどうか、というのは問いとしてはどうでもいい。社会や歴史に紐づいていて、その時代にしかない価値を持つ質の高い作品であれば、写真とか映画がアートとして認められていったように、NFTであっても芸術になりえる。従来のアート層が、NFTを使っているというだけで、今は拒否反応を起こしていて中身すら見ていないのも間違っている。かつて価値があるとされたものを崇め、それこそが芸術だと信じている人たちは拒否反応を起こしてるけど、半世紀かからずに、デジタルデータはNFTのような技術によって、きっとそうなって行くのでは?と僕は思ってしまう。
あとは「NFTでしかできないことって何だろう」っていうのはめちゃめちゃ大事だと思います。絵画には絵画にしかできない表現があるように、あるいは文学には文学でしかできない表現があるように、NFTにしかできない表現っていうのがあって、それを今回の展覧会で紹介したアーティストみたいに表現できた作家は残っていくし、歴史として登録される。きちんと作品に価値が与えられる。でも、そうじゃない、そこに何の必然性もない表現っていうのは、全部淘汰されていくっていうふうに僕は思っています。
質問者)NFTアーティストって言葉にすごい違和感を感じていて、NFTアートが一つの分野になってるって認識をしている人が多い中で、高橋さん的にNFTを使ってる人たちが作っている作品=NFTアートっていうように、一つの分野として認識されているのか、もしくは先ほどお話されてたように、実際、技術について考えている人たちの一つのメディウムとしてのNFTを使っているのがアートと考えているのか、その辺を聞きたいです。
高橋)その違和感は本当にわかります。キャンバスに絵の具で描いたら全部芸術になるのか、と問われれば、僕はそんなふうに思わなくて、やっぱりアートって時代の常識とか、その時代にしかないものを切り取ってくるような、そういうものだと思うんですね。今ここに生きていることを考えさせてくれるものこそ芸術で、それがなければ、僕にとっては表現であってもアートではない。キャンバスに絵を描いたら、全部アートとか、それってすごくイージーな考え方じゃないですか。美術館に飾ったら全部芸術、NFT使ったら全部芸術でしょ、みたいなのって完全に何も考えてないし、アートの価値としては無意味だと思う。
あるいは見方を変えれば、NFTというメディウムもたぶん一過性なんですよ。例えばビデオアート、インターネットアートみたいなものがこれまでもあって、写真だって細かく見ていったときに、今はデジタルは当たり前だけど、かつてはフィルムだった。フィルムでしかできない表現っていうものが存在して、銀塩写真特有のあのザラザラとした粒子の光と影のグラデーションは、厳密にはデジタルの硬質なピクセルでは表現できない。そういう昔のテクノロジーでもメディウムの特性を活かしたものは残っていく可能性はある。NFTアートと同じように、また別の〇〇アートみたいなジャンルが時代が変われば、すぐ出てくるんですよ。でも、そのときにNFTでしかできないことをやった人たちは残る可能性はある。そういうということだと思ってます。
瀧原)展示の作品でいうと高尾さんの作品とか、木に3Dプリントがあってみたいな結構メディウム、いろいろスキルみたいなのがいるのかなと思ったんですが、そういうふうに何か技術と、手で何かディテールを突き詰めるみたいなところが融合したりとかっていうのも、NFTからそのどっちのオーダーに属するみたいなとこあると思うんですけど…
高橋)デジタルアルチザンっていう考え方は出てくると思います。先ほど自動車やトラクター、ミシンのような機械が馬車や人力車、裁縫士といった肉体労働者を失業させていったという話をしたんですけど、逆に超高給取りになった肉体労働者もいるんですよね。
例えば尋常じゃない身体能力を持つプロのスポーツ選手が年棒何十億円とか、超高性能の機械でさえ感知できないような身体感覚、例えば金箔の千分の1ミリの薄さを素手で感じられる人間国宝レベルの職人たちっていうのは、むしろ労働市場において希少価値がずっと高くなった。そういうことがやっぱりデジタルにも起こっていて、デジタル技術で情報と物質を高度に制御できる人の中でも、AIがやらないレベルまでそれを突き詰めていったデジタル職人と呼べるレベルの人たちは、ものすごく高い価値を持つだろうと思いますね。
以上、イベントレポートをお届けしました。
KAMADOでは、世界中から集まったアート・アーティストと、ユーザーが共感・共鳴をする(時には疑問を持つ)事で過度な資本主義ではなく、人との繋がりが価値となり経済効果として立証でき、それらが面白さとして追求できる時代を迎えていけるのでは?と考えて、ワクワクしてます。
また6月5日にも第2弾目の「web3と現代アートの可能性・関係性を探るトークイベント」を開催しました。ゲストは2023年2月に科学技術館で開催されたアートイベント「EASTEAST_TOKYO 2023」の主催者である武田悠太さん。またイベントレポートを掲載致しますので是非ご覧ください。
超複製技術時代の芸術:NFTはアートの何を変えるのか?
展示の詳細についてはこちら↓(展覧会会期は終了してます)
https://gyre-omotesando.com/artandgallery/nft-art/